2018年4月22日にTBSの日曜劇場「ブラックペアン」がオンエアーされました(2018年6月24日放送終了)。
原作は医師・作家の海堂尊の作品「新装版 ブラックペアン1988」(講談社文庫)で、東城大学医学部付属病院を舞台に繰り広げられる様々な不正・執念・因縁の中で成長していく研修医の姿が描かれています。
しかし、この作品に登場する治験コーディネーター・木下香織(加藤綾子)の行動や治験に参加する際に受け取る負担軽減費について物議を醸し、日本臨床薬理学会がTBSに抗議文を送るなどの事態に発展しました。
今回は、実際にどのような問題があったのか、そして実際に治験の業界で働く私の視点からどのように感じたかなどについてお話をしていきたいと思います。
原作から追加された治験コーディネーター
(©TBS番組表より)
原作は、海堂尊の「新装版 ブラックペアン1988」(講談社文庫)になりますが、ドラマ「ブラックペアン」では、実は原作には登場していなかった治験コーディネーターが登場しています。
本作品は、医師間の主権争いの抗争や厚生労働省との癒着など、病院を取り巻く様々な因縁が渦巻く様が描写されているのですが、その中に新たに「治験」に関わる要素をドラマで追加した形となります。
この治験の話題が加わったことにより、ドラマでは治験コーディネータ-(CRC)が登場することになりました。
ドラマで登場する治験コーディネーターの木下香織は、東城大学医学部付属病院の総合外科学教室に所属する天才外科医・渡海征司郎に協力する立ち位置として描かれているのですが、その行動や治験に参加する際に被験者に支払われる負担軽減費について、実情とは大きく異なる描写が含まれており、物議を醸すことになりました。
治験コーディネーター(CRC)とは?
治験コーディネーターのお仕事は、簡単に言うと、病院やクリニックで実施される治験が円滑に進むように医療機関側の補助をするお仕事になります。
治験には様々な立場のお仕事がありますが、ざっくりと”医療機関側で治験のお仕事をしている方”とイメージを持っていただければ良いかと思います。
ブラックペアンに登場する治験コーディネーターの木下香織は、バッチリとスーツを着こなして活動をしていますが、実際の治験コーディネーターはどちらかというと白衣を着てお仕事をしていることがほとんどです。
お仕事のほとんどは医療機関でおこなっており、治験コーディネーターが製薬メーカーや医療機器メーカーに出入りすることは皆無に等しいです。
主に治験コーディネータは以下のお仕事をしています。
●治験のスケジュール調整
●治験で発生する資料の作成
●検査キットの準備、補助
●医療機関に訪問するCRAへの対応
●治験の候補患者の検索
上記の通り、治験コーディネーターが製薬会社や医療機器会社と契約を結び、メーカーサイドの立ち位置で仕事をすることはありません。
ただ、木下香織が元看護師から治験コーディネーターに転職をしたという設定については結構リアルです(笑
実際に、治験コーディネーターは中途の方が多く、そのバックグラウンドは、看護師、薬剤師、臨床検査技師、管理栄養士などの職種の方が多いです。
ブラックペアンの描写の問題点
ブラックペアンにおける治験コーディネーターの描写について、日本臨床薬理学会はこのドラマを通して、患者さんが治験コーディネーターという職種や治験に対して不信感を抱き、治験への参加が抑制されてしまう可能性を危惧し、TBSに抗議文を送る事態にまで発展してしまうことになりました。
ここからは、実際に日本臨床薬理学会がどのような抗議文を送ったのかに触れながら簡単に解説を交えてお話をしていきたいと思います。
所属と接待について
ドラマ中の治験コーディネーターは医療機関のスタッフではなく、治験を依頼した企業と契約した人物として描かれ、責任医師等を接待するシーンも複数回みられています。現実のCRCはあくまで医療機関側の人材であり、責任医師等の指示の下、患者様のサポートをする職種であることが正しく認識されていないように思われます。
「貴局にて放映中のドラマ「ブラックペアン」における治験コーディネーターと負担軽減費に関する学会の見解」より抜粋
日本では、治験を実施する際には、製薬メーカー/医療機器メーカーと治験を実施する医療機関が契約を結びます。そのため、先ほどもお話した通り、メーカーと治験コーディネーターが契約を結び、治験を実施することはありません。
治験コーディネーターは、医療機関のスタッフがその役割を担っている場合(下の絵の①)と、SMO(Site Management Organization:治験施設支援機関)という種類の会社に所属しており、医療機関と契約を結び医療機関でお仕事をしている場合(下の絵の②)があります。
なぜメーカーと契約している設定になっているのかは分かりませんが、番組を制作する過程でそれぞれの関係性がよく分からなくなってしまったのかもしれませんね。
また、治験コーディネーターが治験責任医師等を接待している場面が登場しますが、そもそも治験コーディネータは医療機関側の立ち位置なので、接待をする必要がありません。
むしろ、治験責任医師のお尻を叩いて色々な資料の作成や署名を迫っているイメージの方があるので、接待をしていることはまず無いはずです。それよりもむしろ、治験責任医師に飲みに連れて行ってもらって奢ってもらうとかはあるかと思いますが(笑
負担軽減費について
このドラマでもっとも問題である場面は、医療機器治験被験者候補の患者様の前に現れた治験コーディネーターが「お納め下さい、早急にお入り用と伺いましたので」と患者様へ額面300万円の小切手を手渡すシーンです。
負担軽減費は治験に参加することによって生じる種々の損失をなんとか補おうという趣旨で始まった制度であり、治験に参加して頂くことに対する謝礼ではありません。いくらという決まりはありませんが、あくまで負担を軽減する費用です。
一回の来院あたり、7000円~8000円とする施設がほとんどでしょう。
「貴局にて放映中のドラマ「ブラックペアン」における治験コーディネーターと負担軽減費に関する学会の見解」より抜粋
治験に参加した際には、被験者さんには負担軽減費という名目でお金が支払われます。
世間で時々、「治験に参加して高額報酬をゲット」のように使われている「高額報酬」と言われているものが所謂、負担軽減費のことです。
ただ、抗議文でも記載されている通り、治験に参加して下さった被験者さんに支払うお金は、治験に参加したことによる報酬・謝礼ではなく、あくまで、”負担を軽減するためのお金”を意味しています。
そして、その「負担」とは具体的に、治験に参加する為に必要となった交通費や昼食代などのことを指しています。
それらのことを加味した結果、一般的には一来院あたり7000円~8000円として計算されている場合が多いのが事実です。
負担軽減費の設定根拠となる資料について見てみましょう。
厚生労働省がまとめた「「治験を円滑に推進するための検討会」報告書」では、被験者さんへの負担軽減費について以下のように記載されています。
治験に参加することは、被験者にとって新しい治療を先んじて受ける機会を得る可能性があるという利点がある一方、治験薬の有効性及び安全性の観察のため、より多くの来院、検査等が必要となることから、時間的な拘束、交通費の負担増をはじめとして、治験参加に伴い、物心両面における種々の負担が発生することも否定し得ない。
○ 一部の実施医療機関においては、被験者の種々の負担を勘案し、当該治験に参加することにより生じた負担を軽減するため、一定の金銭が支給されている。また、同様の目的から、金銭以外のものとしてタクシーチケット、食券等が支給されている例もある。
○ 基本的に被験者が治験に参加することは、被験者の善意という要素によるものではあるが、治験参加により生じる被験者の負担につき、実際にかかった費用を勘案しつつ、治験審査委員会の承認を得た上で、社会的常識の範囲内において適切な金銭等の支払いが考慮されることが適当である。
こちらの文章からも被験者さんに支払われるお金については、あくまで治験で生じた負担を軽減する目的で支払われていることが分かるかと思います。
更に報告書では、約200施設の外来における治験について一来院あたり約3,000円~10,000円(平均約7,000円)が支給されているとの報告が記載されています。
この報告書は、1999年の資料であるため、今から約20年前という非常に古い資料になるのですが、この報告書で述べられている「平均約7,000円」が今の基準となっています。
ただ、この7,000円という額は必ずしも遵守しなければいけないものではなく、被験者さんへの負担を考慮したうえで、社会的常識の範囲内で変動することも可能と解釈することができ、医療機関によってその額は異なります(とはいえ、一来院あたり10,000円を超える額は私は見たことがありません)。
この報告書では、外来の治験が基準のお話なので、入院がメインの治験(例えば、第I相の治験など)では少し考え方が異なるのですが、それでも負担軽減費300万円は明らかに「社会的常識の範囲」を越えており、有り得ない額だと言えます(また、治験では負担軽減費の額が治験参加の誘因となることについてはタブー視されています)。
世間一般へのイメージについて
また、これまで治験に参加して頂いた患者様がそのように多額の負担軽減費を受け取ったとの誤解をうけることも危惧され、善意で治験に協力を頂いた患者様に失礼なものと思われます。
諸方面の多大な努力によって、我が国における新薬開発は何とか世界に肩を並べることができている状況にありますが、この分野でのCRCの貢献度は極めて大であります。
このドラマにより患者様がCRCという職種や治験に不信感を持ち、治験を通じた新薬・医療機器開発へご協力を頂けなくなるとしたら、それは医療イノベーションを目指す日本にとって大きな損失に繋がります。
今回の一連の騒動について、「たかがドラマで何故そんなに本気になるのか?」と思われる方もいるかもしれません。しかし、「治験」については、まだまだ世間一般には正しく認知されていないことが多いのが現状です。
そのため、例えば、警察官や消防士など一般の方への認知度が高いドラマの場合は、フィクションであっても世間の方がそれがフィクションであると分かりますが、あまり知られていない治験の場合は、それがフィクションなのかノンフィクションなのかの区別が付かず、誤解を招いてしまう恐れがあります。
そのことからも、私も日本臨床薬理学会の見解と同じ思いを抱きました。
日本で医薬品を販売するためには、治験が必要であり、治験で安全性・有効性をしっかりと確かめなければ、病気に苦しむ方にお薬を届けることが出来ません。
世間では、まだまだ治験に対する正しい知識が浸透しておらず、世間への印象という意味では発展途上であるが故に、ドラマであったとしても慎重な情報発信をお願いしたいという思いです。
まとめ
ブラックペアンそのものの物語は面白く見ていたのですが、医薬品開発に携わっている身としては思うところが多くあったのが今回の作品でした。
個人的には、治験をドラマなどで話題に挙げていただくことは、治験そのものに対する知名度アップという意味で歓迎なのですが、ネガティブなイメージを持っている方が比較的多いという前提があるため、ストーリーでの位置付けについては慎重に検討していただきたいと思っています。
私たち医薬品開発に関わる人たちは、治験が倫理的に行われるよう日々物凄く勉強をして、高い意識で全力で取り組んでいますので、メディアの皆様とも協力して日本の医療をより良いものにしていけたら良いなと願っています。
ちなみに、ブラックペアンは2021年5月17日現在、TSUTAYA DISCASのみで視聴可能なようです。